国際情勢下における日本国の立ち位置について

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文化の日から、すでに1週間が過ぎようとしています。多くの皆さんはご存知だと思いますが、インターネットが、国家を動かす出来事が2010年〜2011年にかけて起こりました。それは「ジャスミン革命」と呼ばれました[1]。極めて穏やかな響きを持つ民主化運動が、チュニジアで起こりました。チュニジアの首都は、チュニスと言いますが、日本の国際ロータリー(Rotary International:RI)では、この国からの交換留学生を受け入れた実績があります。私が所属していたクラブでもチュニジアの交換留学生がいました。極めて優秀で好青年だったことを記憶しています。 

アラブの国々が民主化される。当該国のみならず、国際的な支援活動を行っている国際ロータリー(RI)も、こうした動きに大きな期待を寄せていたと思います。それがどうでしょうか、あれから4、5年が経った今日、イラク、シリア、トルコ、エジプト、イスラエル、パレスチナなど、中東の国々は安定に向かうどころか、一層不穏な状況にあるのが現状です。日本のトルコ大使館での選挙投票日における、トルコ人とクルド系トルコ人との争いは、一つの縮図を見る思いでした。中東の国々が、如何に不安定で悲惨な状況にあるか、注目している人々にとっては、悲しく憂慮していることと思います。 

例えば、シリアで亡くなった米兵の数は、2015年10月25日現在で約4.500名、負傷者の数は3万2千人にも及んでいます[2]。何故、民主主義に向かおうとした動きに、水がかけられ、むしろ以前より、より不安定な社会情勢になってしまったのか、日々平穏に暮らせている私達には、理解に苦しむのが実情ではないでしょうか。これら紛争を阻止するために派兵された兵士が死亡したり、また負傷者が出るたびに、阻止力を維持するために、その補充が行われています。これら補充兵の多くが10代や20代そこそこの若者(infaint soldiers)だというではありませんか。彼らは、志願兵もいれば徴兵された者もいるでしょう。でも、どうでしょうか、この統計数字は2010年からの5年間の実績数ですが、少ないとか、多いいとか言う前に、兵士の死者や負傷者の数、あるいは戦闘に何ら関係のない一般人の人々の被害状況を考えると、“知恵ある猿は何をしているのだろうか”、いらだちを強く覚えます。「成長」「発展」「夢の実現」「豊かさ」「安全」「安心」「安定」といった無縁の社会環境が現存する事実に対して、無力である私達の姿、本当にこれで良いのでしょうか。 

日本は、「安保法制」を巡って、多くの学生や市民、また政治団体などによるデモがありました。「安保法制」の危険性を問う人々の気持ちは分からないではありませんが、この日本は、自分の国のことしか考えていないように思えてなりません。自分たちの「安全」「安心」「安定」しか、見ようとしていないように思えるのは、私だけでしょうか。 

この小さな地球で、一国の独立国として国際的にどう振る舞うべきか、他国のことをもっと考慮し、行動できる国家になることを、日本は求められていると思っています。これが、世界が求める日本の姿であり、このことに応えられる国家としての姿を、他国に受け止めていただく必要性があると考えます。何も、積極的に戦争に参加し、死者や負傷者を出せと言っているつもりはありませんが、紛争地帯で戦を阻止するために戦っている国家と兵士は、実に多くの血を流しています。 

「戦争放棄を掲げた憲法」が通ずる地球の地域(国々)は、どこにあるのでしょうか。皮肉にも欧米先進国の実態は、武器輸出を通し、紛争の温床を作ってきたことは、一面の事実だと私は見ています。戦いが起これば、武器商人(国家を含む)は潤う。こうしたことを許さない毅然とした行動がとれる国家、これに立ち向かうには、無手勝流では通用しないのが現実だと、私は考えます。何故、若い命が失われなければならないのか。日本とは、一見無縁のような地域情勢に目をやり、行動を起こせる国家、それが日本国に求められている姿だと私は思っています。

[1] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%B3%E9%9D%A9%E5%91%BD

[2] http://web.econ.keio.ac.jp/staff/nobu/iraq/casualty.htm 

 

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