谷  學 50年の公害歴史を閉じる

拝啓 5月も半ば、季節はもう夏です。関係者の皆様には、益々ご健勝の段、お慶び申し上げます。

さて、私、谷は、この3月31日を持ちまして、グリーンブルー株式会社の代表取締役を辞し、取締役会長に就任いたしましたことをお知らせ申しあげます。会長と言っても具体的にテーマがあるわけではなく、実質、第一線から身を引いたに等しい状況にあります。さらにこの夏には、取締役も辞任し、全くフリーの身分となります。在任中は、関係者の皆様には、一方ならぬご愛顧を賜り、改めて、心から感謝申し上げる次第でございます。

顧みれば、1972(昭和47)年に同僚と立ち上げた(株)日本公害防止技術センターが置かれていた状況は、丁度1970(昭和45)年の公害国会、そして71年に同国会で成立した法案に沿って、環境庁が誕生しております。私どもの会社が産声を上げ、環境測定分析ビジネスを始めた初期は、まだ、環境法律が地方自治体へ浸透せず、ましてや民間企業には公害条例の内容が行き渡っておらず、営業活動を行っても警戒されるのが実態で、仕事を頂くことが極めて難しかったことが思い出されます。結局、私が以前に在職していた(財)日本環境衛生センター時代に知り合った方々のお世話になり、曲がりなりにも業務をスタートさせることができたというのが実際です。あの当時に知り合うことができた多くの先生方のお力添えがあって、会社は船出をすることができたと思っています。

 会社は、高度経済成長の波に乗り、順調に成長し、1992(平成2)年に満20周年を迎えた折りに、コーポレート・アイデンティティー(CI)活動を通し、社名を(株)日本公害防止技術センター(NIKKOBO)からグリーンブルー(株)に変更しました。この社名変更に至るまでの経緯があります。仕事の確保は問題ないが、人、物、金という経営資源をどう使って、事業をなし、成長を続けるべきか、悩んだ時期があります。それは、会社発足から12年が経った1984(昭和59)年頃から、「経営とは何だ」と考えるようになりました。肩書に取締役を拝しながら、経営の「け」の字も知らない状況でした。それまでは、(財)日本環境衛生センターで得た測定分析の技術・知識、加えて関係者によって成り立ってきた組織で、その運営のあり方はどうあるべきかと、勉強を開始したのが昭和59年頃でした。記憶にあります「糸川秀雄博士」の経営セミナーを皮切りに、経営のビデオを片端から見続けたりしました。企業経営と言えば、当時「産能大」が有名で、同大学の「戦略ゼミ」にも通いました。CIの導入は、経営技法をパソコンソフトで指導するセミナーに出会い、ここで知り合った講師の加藤邦弘氏に、日本公害防止技術センターの経営分析をお願いし、財務、営業のあり方、個人個人の目標設定等、当時の経営資源全体のコンサルティングを通して、その結論がCI導入となった次第です。「グリーンブルー」は、良いコーポレートネイムであり、ロゴや企業理念、経営方針など立派なものができ、NIKKOBOは生まれ変わった。それが1992(平成4)年でした。

その後、私は1995(平成7)年5月に、業界団体である(社)日本環境測定分析協会の会長に就任する機会を得ました。会長の指名を受けて直ぐ、小規模の米国環境ラボ視察団に加わり、米国の先進的な環境ラボのいくつかを実際に視察しました。日本の環境測定分析ラボのITと標準化の遅れを痛切に感じ、帰国後直ちにレポートにまとめ、日本環境測定分析協会の全国7支部を回り、米国事情を報告すると同時に各種ISOシステムの導入の必要性を説いて回りました。これは、私が業界の発展に大きく貢献したものの一つであると思っています。

丁度この頃に、有害化学物質の多項目規制がスタートし、業界のフォローの風とも重なり、日本の測定分析会社は、まじめにISOの取組みを進めた姿が記憶にあります。グリーンブルーにとっては、米国視察で、デンバーにあるカンテラ社(当時)とダイオキシン分析サービスでアライアンスを組むことができ、数年に亘ってダイオキシン業務で活況な時期もありました。

私が在籍していた43年間で、グリーンブルーは1996(平成8)年6月に11億6千万円、次いで2015(平成27)年6月の11億6.5千万円がピークでした。グリーンブルーの売上高推移は、日本の名目GDPの推移と極めて良く一致しており、この状態を見て、ある経営コンサルタントが日本の経済状況は「茹でガエル」状態だと説明されていました。私は、極めて的を射た表現だと思い、わが社の事業も、いうなれば「茹でガエル」状態だということを改めて認識した次第です。

こうした折、メインの取引銀行さんの仲介で、グリーンブルー株式会社を買いたいと申し出ている会社があるとの紹介をいただき、相手の社長さんとの面談後、急転直下、買収の話が進み、2015(平成27)年12月に売買の基本契約が成立し、2016(平成28)年4月1日を持って、オーナーの変更とともに、私、谷は取締役会長(形だけの役職)となった次第です。私の引退は、まだまだ早いという方もいらっしゃいましたが、「茹でゲル」を何とかできない経営者は、すでに時代(環境)適合が難しいことを証明しているものであり、私の出番は終わったなとの思いに至った次第です。

新たなオーナーならびにグリーンブルーの経営陣は、若い者で布陣しましたので、これからの成長が期待できるのではないかと思っております。

ただ、日本の国ならびに地方公共団体が進めております環境大気モニタリングに、大きな問題点があり、これを改善させられなかったことが心残りです。「計量法」(度量衡)には、長さ、重さ、ある力、温度等々、国家標準があり、私達が使っております「指物・秤」(計量器)は「計量法」で管理されており、信頼できるトレーサビリティー体系で運用されています。大気汚染物質を図る自動測定機には、オゾン計にはマザーマシン(基準器)があり、これにトレーサブルであることが求められています(但し、オゾンのマザーマシンはありますが、現場における校正手順は、地方公共団体や業者でまちまちです)。他の硫黄酸化物計や窒素酸化物計やPM10やPM2.5等の校正は、標準とのトレーサビリティーが不十分であるのが実際です。私は、これを世界に通用する仕組みで動かすべきであると訴えてきましたが、これらについて改善する動きは見られません。これだけは“やり残した”テーマだと思っています。

いずれにしましても、4月1日からはお飾りの取締役です。加えて、8月の株主総会絵では、正式にグリーブルーとは縁が切れることになります。関係者の皆様には、本当にお世話になりました。なんとお礼を申し上げればよろしいか、私の人生で、大きな関わりを持っていただいた方々の存在があって、初めて、これまでの私があったと認識しております。改めて、心から感謝申し上げる次第でございます。

                                       敬具

2016年5月23日

                                     谷  學

企業経営管理講座を終えて

4月16、17、23、24、5月7、8、15日の7日間にわたって、午前10時から午後4時まで、みっちり「企業経営管理講座」を受講し、無事「終了証書」を受け取った。この講座を受講してみようと思った動機は、自分が関わった会社の業績動向が、見事に日本のGDP(国内総生産)の動きと一致していることに、かねてより疑問を持っていたことが原因だ。一時はIPOも考えて時期もあったが、どうしても12億の壁が超えられなかった。この状態を、企業経営講座の講師は、「茹でガエルの状態だと」説明した。12億の壁を超えると20億は、現実のものとなると考え、いろいろイノベーション戦略に挑戦した。肝心な両輪の片方であるマーケティング戦略(中小企業の成長戦略)が、思うように動かせなかった。イノベーションセンスを基に、新規のサービスアイディアを造り出すまでは行くのだが、顧客の声を聞きだす、また、顧客の価値観を揺さぶるまでには行かなかった。つまり、マーケティングが戦略にならす、社内における旗振りだけで終わってしまった。このやり方では、会社は成長軌道に乗せることができないと考え、自分の歳のことも考え手放すことにした。

自分の脳の中にある世の中のニーズは、かならず顧客のニーズでもあると信じて、せっせと情報を仕入れ、理解のために猛勉強をしてきた。しかし、残念にも社員を巻き込めない自分がいることに気づいた。一人で行える事業は、たかが知れている。80人もの社員を巻き込めれば、きっとでっかいビジネスができる。そう信じて取り組んだが、イノベーションとマーケティングの両輪が回すことができなかった。言うまでもなく、両輪が機能しなければ、企業を成長軌道に乗せることは難しい。

今回の研修は、自分が43年間事業を進めてきたことのレビューの意味で、経営のイロハの勉強をし直してみようと思い、行動を起こしたものだ。日本の産業政策について、もっと早く気づいていれば、成長軌道へ乗せることは夢ではなかった。少し気づくのが遅かったと、猛省している。エネルギー、気候変動、食糧、水の世界にビジネス機会があることは間違ない。しかし、政府の産業政策を活用し、ICT、IoTに結び付けたビジネスモデルを構築し、動かす力が足らなかった。私は、アイディアを紙の上に落とせる力は、今でもあるが、レバレッジを使って、飛躍させる手法を見逃していた。日本の大手企業が海外に出てゆく、それについて行ける中小企業は、優れた企業である。しかし、取り残された中小企業も国内で生き残るための成長の芽を育て、持続する必要がある。そうすることで、国境を超えたビジネスチャンスは、巡ってくる。少なくとも自分が関わっていた企業には、十分にその可能性はあった。

いずれにしても、私にとって、充実した7日間であった。機会をいただいた関係者に皆様には、感謝の一言である。。